ミサの「ことばの典礼」で、省くことができるものはあるのでしょうか? たとえば三つある朗読のうちの一つを省くとか・・・・・・?

「ことばの典礼」は、救いの歴史をたしかな構成のなかで示すものであり、むやみに省略することはふさわしくありません。
ただ、あくまでも条件つきですが、省くことは不可能ではないのです。
それについてはまず、「ことばの典礼」の構成について考えてみることにしましょう。


『ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則』は第33~40項で、「ことばの典礼」の構成について次のように解説しています。
  1. ことばの典礼の主要な部分を構成するのは、聖書からとった朗読と、朗読の間にある歌である。
    聖書朗読の中で、神はその民に語られ、あがないと救いの神秘を説き明かし、霊的な糧を与えられる。
    キリストは、ご自身のことば(福音)によって信者の間に現存される。
    この神のことばを、会衆は歌によって自分のものとする(答唱詩篇:昇階唱)。
  2. 説教(聖書朗読の解説)、信仰宣言、共同祈願(信者の祈り)は、それを展開し、結ぶものである。
    説教はキリスト者の生活の糧に必要とされる、典礼の一部である。
    信仰宣言によって、会衆は聖書朗読と説教をとおして聞いた神のことばに共鳴し、応答し、さらに神のことばを自己に結合する。
    共同祈願によって、神のことばに養われた会衆は祭司職のつとめを実行し、教会全体の必要と、すべての人と全世界の救いのために嘆願の祈りをささげる。

さて、ここで質問にあがっているのは「『ことばの典礼』のなかで省くことができるものがあるかどうか」です。
これについて考えるためにまず、「省いてはいけない」ものについて見てみましょう。
これもやはり『総則』第35~36項によれば、「欠くことのできない部分」とはっきり記されているのは(あるいはそのように読み取ることができるのは)次の三つである――ということができると思います。
  1. 福音の朗読。
    キリストのことばである福音の朗読に「最大の尊厳」をはらうべきことは、典礼自体が教えていることである。
  2. 第一朗読のあとに答唱詩篇(昇階唱)が続くが、これは「ことばの典礼」に欠くことのできない部分である。
    答唱の各詩句はそれぞれの朗読と直結しており、詩篇の選択は朗読に依存する。
  3. したがって、答唱詩篇に先立つ第一朗読も、「欠くことのできない部分」であるといい得る。

福音朗読が省略できない、というのはわかりますね。福音朗読は「ことばの典礼の頂点」だからです。
一方、ほかの朗読箇所はどうでしょうか。

「ことばの典礼」では、旧約聖書から選ばれる第一朗読につづいて、使徒書(書簡あるいは黙示録)から選ばれる第二朗読、そして最後に福音書が朗読されるように配分されています。
こうすることによって、旧約と新約、および「救いの歴史の一貫性が明らかになる」のです。
つまり、「救いの歴史の中心は、その過越秘義において記念されるキリストなのである」(『朗読聖書の緒言』第66項(1)参照)。

ですから、その日の福音の主題に調和するようにという意図で第一朗読が選ばれている場合、やはり省くことはふさわしくない、といえるでしょう。
「旧約聖書の朗読と新約聖書の朗読との間にもっとも優れた主題の調和が見いだせるのは、聖書それ自体にそれが示される場合、すなわち、新約聖書の箇所に述べられる教えや出来事が旧約聖書の教えや出来事と多少にかかわらずはっきりした関係を持っている場合である。
この朗読配分の中に選ばれている旧約聖書の箇所は、何よりもまず、同じミサで朗読される新約聖書の箇所、とくに福音との符号に基づいている」(『緒言』第67項)。
主日のミサで三つの朗読があらかじめ用意されている場合、もちろん「実際に三つの朗読が行われるべきである」(『緒言』第79項)。

それでもなんらかの理由で二つだけの朗読がなされることもあり得るでしょう。
そのような場合には、第一と第二の朗読のうち、「救いの秘儀をより豊かに教える」ことができるよう、福音の主題と調和する方を選ぶわけです。
「その箇所に別の注記がない限り、初めの二つの朗読のうちから福音とよく調和するほう、または前述の勧めに従って一定期間にわたり一貫した教話を行うのに役に立つほう、あるいはある書の準継続朗読ができるほうを選ぶようにする」(『緒言』第79項)。

ですから、くれぐれも「こちらの方が短いから」というような理由で選ばないようにしましょう。

ちなみに、「省略することができる」と(条件つきで)記されているのは次のとおりです。
  1. アレルヤ唱、または福音朗読前の唱句(詠唱など)は、歌わない場合、省略することができる。
  2. 福音の前の朗読がただ一つだけである場合、
    1. アレルヤを唱えるべき季節には、アレルヤ詩編、もしくは詩編とアレルヤとその唱句、もしくはアレルヤだけを唱えることができる。
    2. アレルヤを唱えない季節(待降節や四旬節など)には、詩編もしくは福音朗読前の唱句を唱えることができる。

「典礼行為は・・・・・・教育的な意義を含んでいる」(『緒言』第61項)。
この「意義」はとくに「ことばの典礼」において、朗読配分をなすことによって「キリスト信者に神のすべてのことばの知識を与えるもの」(『緒言』第60項)となっています。
「そうはいうものの・・・・・・・やはり聖書の箇所がいきなりぼん、と、読まれてもむずかしくてわからないことのほうがほとんどですよ?!」

なるほど、それはたしかにそうかもしれません。
『朗読聖書の緒言』は、難解な聖書の箇所は省いてあるとのべていますが、現実問題としてそういうことはあるだろうと思います
(もっとも『緒言』も、「しかし、信者に理解し難いという理由で、いろいろな箇所に含まれている霊的な富を信者に隠すようなことはできなかった」(『緒言』第76項)とのべていますので、やはり、「むずかしい・・・・・・」と感じるような箇所が朗読されることはじっさいにあるわけです)。

だからといって、「いきなり読まれても意味がわからないから」というような理由で「じゃあ、いっそ、この朗読箇所は省いてしまおうか」という判断は、いかがなものかと思います。
あらかじめ次の主日の『聖書と典礼』を手に入れておいて、みことばの豊かさに触れる機会を設けることが必要でしょう。

「なるほど、おとなの場合でしたら平日にあつまってみことばの分かち合いもできるでしょう。
では、『子どもとともにささげるミサ』の場合はどうしましょう・・・・・・?」

もちろん、「子どもとともにささげるミサ」の場合でも「今日の朗読は長くて、子どもにはむずかしいから・・・・・」という理由でかんたんに朗読をはぶいてしまうことはできません。
「短い朗読のほうが長いものより、いつも必ず子どもたちに適しているとは限らない」(第44項)からです。
かといって、子どもの理解力に追いついていないものをポンと放り投げるようなことはためらわれるところです。
まして、はじめの朗読がどうやって福音のテーマと関連するのか、この説明だけで説教の時間がすぎてしまったら、子どももおとなもまるで「お勉強」につきあわされているようになってしまうでしょう。
かんじんの福音のメッセージに触れる間もなく退屈しきってしまうようにでもなれば、それはざんねんなことになってしまいます。
『子どもとともにささげるミサの指針』は、「子どもとともにささげるミサ」での聖書朗読について、次のような「配慮」を提唱しています(第41~48項)。
  1. 主日(週日)に定められている三つ(二つ)の朗読が、子どもにとって理解しにくいと思われる場合:朗読を二つ(一つ)にしてもよい。
    ただし、いずれの場合も福音の朗読は省かないこととする。
    朗読がただ一つしかおこなわれないときには、説教の後に聖歌をうたうことができる。
  2. その日に指定されている朗読箇所のすべてが、子どもの理解に適していないと思われる場合:典礼季節に配慮しながら、朗読箇所を聖書の中から直接選ぶことができる。
  3. 聖書の中のある節を省くことが、子どもの理解力からみて必要と思われる場合:原文の意味、聖書の意図と文体がそこなわれないように注意しながら、それをおこなうことができる。
  4. その他のくふう:
    1. 朗読前に文章の前後関係を説明する。
    2. 本文そのものに導入するような解説をくわえる。
    3. 本文が適当であれば、(聖週間の「受難の朗読」のように)役割を分担して子どもたちに読ませることができる。
    4. 説教も、(子どもがだまって聞くことが望ましい場合を除き)子どもと司祭の対話の形式でおこなうようにする。

いずれの場合も、「子どもたちが聖書朗読を自分なりに消化し、神のことばのとうとさを日増しに認めるようになるために、朗読の理解に役立つすべての要素を大切にしなくてはならない」(『指針』第47項)ことはいうまでもありません。
その意味では、時と場合によってはふだんの主日のミサでも一考されてよい「配慮」といえるかもしれません。