いつ頃から、今のようなミサになったのですか?

基本的な形は、およそ2世紀頃までさかのぼることができるでしょう。
もちろん感謝の祭儀(ミサ)の原型は、2000年前、イエスさまが、最後の晩餐の席上で述べられた「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22・19)に基づいています。


「ミサ」がどのような祭儀で、いつ、どのようにして始められたのを明らかにすることは、2000年前の「キリストの教会」の誕生を明らかにすることと重なります。

この「教会のはじめの時」の姿を、新約聖書はごくあっさりと伝えます。

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒言行録2・42)

毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(使徒言行録2・46‐47)

「彼ら」、まだキリスト者という名さえ持っていない人々のグループは、「教え」、「相互の交わり」、「パンを裂く」、「祈り」、この四つのことを共にするために、個人の家に集まりました。
イエスの死後、まもないころのことでした。

原始キリスト教共同体、つまりキリスト教会はこのようにして始まりました。

「パンを裂く集まり」がこの共同体の要となる祭儀であり、二世紀のはじめには「感謝の祭儀」、そして五世紀ごろから、この祭儀全体を指して「ミサ」という言葉が用いられるようになりました。

「パンを裂く集まり」についての聖書の描写はあまりに簡単なものですが、この小さな集まりは、人類の歴史に大きな転機をもたらすほどの意味と力を秘めていました。
それは、この人々が、まさに生と死との転回を経験してここに集まり、たとえようのない喜びと感謝に満ちてイエスの死と復活を記念しているからです。
生と死と復活と、ここに人間の深淵とキリスト教の神秘があります。

感謝の祭儀は主の晩餐にその起源をおいています。
キリスト信者は主の食事を記念するために集まって、裂かれたパンをともに食べ、杯からぶどう酒を飲みました。
感謝の祭儀が最後の晩餐の記念である以上、イエスとの別れと、目前に迫ったご死去の告知に伴う悲しみが漂うのが当然かもしれませんが、それにもかかわらず、祭儀は喜びの雰囲気に包まれて展開していきます。
これはほかならぬ「エウカリスチア」、つまり祝福であり、賛美であり、感謝だからです。
というのも、イエスが受難の直前に使徒たちとともにとられた食事は、復活の光のなかで再現されるからです。
そこでは苦しみに満ちた受難が「いと幸いな受難」〔『ローマ・ミサ典礼書の総則』55ホ。〕、勝利の受難となっています。
死去の前夜、イエスは弟子たちにご自分の父の国で彼らとともに飲む新しいぶどう酒(マタイ26・29)について話されました。
ところが、復活の日の夕暮れ、イエスはエマオに向かう途上で道連れになった二人の弟子にパンを裂いて与え(ルカ24・30)、その後、エルサレムに集まっていた十人の使徒たちから食事の残りを受けて食べておられます。(ルカ24・41)。
また、ガリラヤの湖畔では使徒たちに、「さあ、朝の食事をしなさい」(ヨハネ21・12)と仰せになりますし、最後には使徒たちと食事をともにされた後、彼らを離れておん父のもとに戻られました。(使徒言行録1・4)

そのときから、十字架上の犠牲の先取りである最後の晩餐の思い出は、復活されたキリストとともにした食事の思い出と結びついています。
神が自ら人となり、人間の家族の一員となってもたらされた死と復活、これがキリストの過越しの神秘です。
新しい契約のいけにえの食事、栄光の主とともにいただくパン、信者の共同体の感謝、司祭をとおしてキリストご自身が主宰される食卓を囲む喜びにあふれる会衆。
以上が、最後の晩餐からほど遠くない時代のミサで、これは今日でも同じです。

この使徒たちの時代から今日にいたるまで世界のさまざま土地で、場所で、人々は感謝の祭儀を捧げ続けました。
その根本の中心的な部分では、祭儀の最古の文献(『聖ヒッポリュトスの使徒伝承』)に記されているものと同じ言葉を用いて今日も祈っています。
けれど、祭儀のかたちでは、2000年の間に歴史が移りいくとともにかなりの変化が生じました。

原始教会では、ひとつのテーブルを「主の食卓」として人々がとり囲み、ひとつのエウカリスティア(主のパン=聖体)にあずかりました。
しかし、中世末期には、司祭も他の奉仕者も信徒も同じ聖堂にいながら互いに顔を合わせることなく、各自がそれぞれに神に向かって祈るという、個人と神との個別的な礼拝の場となり、しだいにミサは現世利益的な傾きに陥っていきました。

宗教改革の時代、ミサに関しても改革を求める声が上がり、ミサをわれわれ人間への神からの贈りもの、神への感謝と見るよりも、神に気に入ってもらえるような人間の行為とする見方が、まさに改革を必要とされ、十六世紀のトリエント公会議は、混乱した秩序を回復するという実践的な仕事を果たし、二十世紀の第二バチカン公会議は、感謝の祭儀の伝統を十分に把握しなおしてその思索を深め、ミサはキリストの唯一の奉献を記念する祭儀であり、その祭儀を祝う教会とは、信者の具体的な集いを意味することを再確認しました。
祭壇を囲んで会衆に対面し会衆とともに捧げるミサの典礼の言葉は、全面的に会衆の言語、各国語が用いられるようになりました。

二一世紀の今、地球上のさまざまな地方で捧げられるミサは、原初の「パンを裂く集まり」の四つの要素を骨組みとして構成されています。

「教え」・・・・・・・・・・・・
旧・新約聖書の朗読、説教。

「パンを裂く」・・・・・・
パンとぶどう酒の奉納。
十字架上の奉献の死を先取りしてキリストが最後の晩餐で行われたことを「記念」する。
司祭は手にパンを、またぶどう酒の杯をとって、キリストの言葉のままに「これは、あなたがたのために与えられる私のからだ」、「あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる私の血」といって聖別する。
「信仰の神秘」という司祭の言葉に、会衆は「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」と唱和する。
聖体拝領。

「祈り」・・・・・・・・・・・・
古代のかたちのとおり司祭は両手をひろげ、掌をほぼ方の高さで上に向けて祈る。

「相互の交わり」・・・・
司祭と会衆。
人々は民族、国籍、社会的な身分を越え、主の食卓を囲む兄弟としてそこに参加し、互いに結ばれ交わる場が実現する。

その場所が大聖堂であれ、個人の病室であれ、野外でも、また世界中から寝袋持参で集まった幾万の若者が埋めつくすバチカン広場の教皇ミサでも、この同じ式次第でミサは捧げられます。

「私の記念としてこのように行いなさい」“アナムネシス”というギリシャ語が「記念」という意味で聖書に用いられるとき、それはもはや過ぎ去ったものとして過去を回想することを意味するのではなく、現在の奥に心の想いを届かせて、現在をかたちづくっている過去の出来事をいまに生きるものとし、さらに未来へと方向づけることとなるのです。

(参考文献)

『ミサ きのう きょう』 ピエール・ジュネル 著 ドン・ボスコ社

『ミサの物語』 和田町子 著 日本評論社