誤解する人が少なくなるように、学び合いましょう。
2014年11月30日発効の「日本におけるミサ中の聖体拝領の方針に関する指針」には、両形態の拝領が認められる機会について定められています。
受難の前夜に「わたしの記念としてこのように行いなさい」(一コリント11・24-25)といわれたキリストの命令に従うことは、最も根本的なカトリック教会の教えの一つです。
エウカリスチアの秘跡について『カトリック教会のカテキズム』がどのように教えているかを確認してみましょう。
「1412 この秘跡の基本的なしるしは麦で作られたパンとぶどう酒であり、その上に聖霊の祝福が呼び求められ、司祭は最後の晩餐の間にイエスが言われた『これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。・・・これはわたしの血の杯である』という聖別のことばを唱えます。」
質問者は、パンとブドウ酒それぞれの形態のもとにキリストが現存されることを重視しておられるようですが、教会は次のように教えています。
「1413 聖別によって、パンとぶどう酒の実体はキリストのからだと血の実体に変わります。聖別されたパンとぶどう酒の形態のもとに、生きておられる栄光のキリストご自身が真に、現実に、実体的に、からだと血、霊魂と神性ともども現存されます。」
キリストは、さまざまなしかたで教会に現存されます。
「1373 ご自分のことばのうちに、ご自分の教会の祈りの中に、『二人または三人が【ご自分の】名によって集まるところには、その中に』(マタイ18.20)、また、貧しい人、病人、囚人のうちに、ご自分が制定された諸秘跡のうちに、ミサのいけにえならびに司式者のうちに現存されます。しかし、『とくに、聖体の両形態のもとに現存しておられる』(『典礼憲章』7)のです。」
「1416 キリストのからだと血を拝領することによって、本人とキリストとの一致が強められ、小罪がゆるされ、大罪から守られます。また拝領者とキリストとの愛のきずなが固められるので、聖体拝領はキリストのからだと血を拝領することこそが本来のあり方です。」
「1355 主の祈りとパンを裂いた後に行われる聖体拝領(コムニオ)で、信者は『天からのパン』と『救いの杯』すなわち『世を生かすため』(ヨハネ6.51)にご自分を渡されたキリストのからだと血をいただきます。」
パンの形態だけの拝領にするか、パンとぶどう酒の両形態での拝領にするかの判断基準は、どちらがよりいっそうイエスの死と復活をふさわしく記念し、キリストと教会との一致を適切に表現し、理解を深めるものとなるかということにあります。
教会は明確に次のように教えています。
「1390 キリストが各形態のもとに秘跡的に現存しておられるので、パンの形態だけの拝領でも両形態での拝領と同じ恵みが与えられます。ローマ典礼では種々の司牧的理由から、このパンの形態だけでの拝領のあり方が合法的に普通のこととなりました。しかし、『しるしの観点からすれば、両形態のもとになされる拝領は、より充実して形式を備えています。この形式においては、感謝の会食のしるしがより完全に現れます』(『ローマ・ミサ典礼書の総則』240)。この両形態での拝領が、東方教会典礼では通常の方法となっています。」
イエスの晩餐は食事でした。
食事なら食べ物も飲み物もあり、これはどんな文化や時代においても自然なことです。
しかもイエスの場合、み言葉によるパンとブドウ酒のしるしはとても大きな意義を持ちます。
体と血が別々になると、それは傷や死を表すものになってしまいます。
さらにブドウ酒は宴会の喜びの源であり、神の国の宴でキリストは、それをもう一度飲むようになると約束しました。
だからブドウ酒は、復活と来臨の意義をも表していることがわかります。
パンとブドウ酒は、このように多くの意味を示す秘跡になっています。
こうしたエウカリスチアのすべての要素を考えると、「これをとって飲みなさい」というイエスのはっきりした命令を行うことは、とても大切なことです。
典礼学的に言えば、被造物的なしるしてあるパンとブドウ酒、そしてみ言葉と動作をもって、イエスの死と復活を充分に表して記念できるかどうかが、両形態で拝領を行うのか、またどのように行うのかの判断基準でなければなりません。