集会祈願や奉納祈願、拝領祈願などはなぜ、「公式祈願」と呼ばれるのですか?

「聖なる民全体と会衆一同の名によって」、つまり共同体全体の名によって司式司祭が唱え、神にささげる祈りだからです。
公式祈願は「集会の座長」をつとめる司祭によって唱えられます。
ですから司祭はその役割上、この祈りを「明確に大きな声で述べ」なくてはならず、また参加者も「これを注意深く聞く必要が」あります。
共同体全体がささげる「公式」の祈りなのですから、この間(自分に関係ないことが言われている・・・・・・)というように、まるで他人事のような態度で接することはできません。


司祭の「祈りましょう・・・・・・」という招きのことばの後で、沈黙の祈りをもうけます。
とくに集会祈願のときに、この沈黙のなかで「自分が神のみ前にいることを意識し、自分の願いを思い起こす」ようにします。
このたいせつな沈黙につづいて司祭は祈願を唱えますが、結びの「アーメン」ということばによって参加者もこの祈願に同意し、祈りが(司祭が勝手に唱えたのではなくて)自分のものにされる、というわけなのです。
つまり、唱えるのは司祭ですが、祈りをささげるのは共同体全体なのです。

ところで、このように公式祈願の性格について考えたとき、いくつかの問題があることにきづかないでしょうか。

上にのべたとおり、司祭が唱えるこれらの祈りのことばが(共同体全体のものであるにもかかわらず)しっかりと自分のものになっていなければ、そもそもの意味を失ってしまいます。
幸いわたしたちには『聖書と典礼』というパンフレットが手もとにあって、今、なにが祈られているのかを目でおうことができるのですが、ミサが終わったあとで思い起こせば、司祭の説教よりも印象がうすいものになってしまっていた・・・・・・そんな経験はありませんか。

集中力が続かないから? 自分の関心事とは関係のないことが祈られているから? 司祭がぼそぼそっと唱えてしまっているから?

いずれにせよ、このあたりそれぞれの共同体でくふうの余地があるかもしれません。

ひとつは、その日のミサで告げられるみことばとの関連性に注目することです。
神から語りかけられるみことばとその日の公式祈願の内容とが密接に関わりあっていることに気づかされれば、キリストのからだとして集められた「自分の願い」がどのようなものでなければならないか・・・・・・という気づきはより明確なものになるでしょう。

わたしたちが手にすることのできる『聖書と典礼』所載の公式祈願文に、小さい文字で「○年用・試用」という断り書きが入っているのに気づかれたことと思います。
『聖書と典礼』編集部によれば、「現在続けられている公式祈願の新しい試みは、福音の分かち合いのためにも重要な意味をもつものです。
これらの祈願全体に目を配りながら、大きな変動期を迎えつつある日本の教会の信者一人ひとりの祈り、そして各共同体での祈りが深められていくことを願っています」とのことです(オリエンス宗教研究所『聖書と典礼』2001年10月28日号「福音の分かち合いのために4 〈祈願を参考にして深める〉」)。

つまり、参加者各人がその日の福音を受けとめ、また共同体全体の祈りがこれにこたえてささげられるものとなるように、という公式祈願本来の意味を再確認できるようにくふうされているのです。

もちろん、これまでの各年共通用の公式祈願を使ってはいけない、ということではありません。
また、あくまでも「試用」なのですから、じっさいに祈ってみてどう感じたか、わたしたちにはひろく意見が求められています。

ミサのはじまる前に、その日わたしたちがささげる祈りにじっくりと目をとおしておくのはもちろんのこと、聖書の分かち合いの機会があれば、次の日曜日の『聖書と典礼』を積極的にもちいて祈ることもたいせつなのではないでしょうか。

ところで、公式祈願は子どもにとってどのような意味をもつのでしょうか。
おとなでもしばしば上でのべたようなことが起こるのですから、子どもならなおさら、「意味がわからない!」ということになってしまうのではないでしょうか。

そこで、『子どもとともにささげるミサの指針と奉献文』から、祈願文について言及されているページを開いてみたいと思います。
『指針』は、「(公式祈願をささげるときに)子どもたちが、司祭と心を合わせて祈ることができるために、典礼季節を考慮に入れた上で、ローマ・ミサ典礼書の中から、子どもたちに、より適した祈願を選ぶことができる」(第50項)としたうえで次のようにのべています。

「時として、祈願文を選択するだけでは子どもたちがある祈願文を、自分たちの生活や宗教体験の表現として受け入れるためには不十分なことがある。
祈願文は成人のために作られているからである。
このような場合、ローマ・ミサ典礼書の祈願文を子どもたちの必要に合わせて適応させることになんらの支障もない。
ただし祈願文の目的と、ある程度までその内容を保つことが必要で、公式祈願の文学類型から外れたもの、たとえば、道徳的なすすめであるとか、あまりにも子どもじみた話し方などはすべて避けるべきである」(第51項)。

この『指針』では、ミサに参加する子どもたちが「退屈しないように」、かつ、祈りに「注意が集中しなければならない」と強調しています。
しばしばわたしたちはそのようにうながされると、「退屈しないように」さまざまなくふうをこらし、もっとわかりやすいものに「適応」させようとかえってことばを盛りこんでしまい、よけいに冗長なものにしてしまう傾向にあるのではないでしょうか。

この『指針』がわたしたちにすすめているのは「足し算」の発想ではなく、むしろ余分を削いでたいせつなものを浮かびあがらせようとする「引き算」のくふうであることを忘れてはならないと思います。
わたしたちのミサへの準備は「今日わたしたちに告げられる福音がよりいっそうインパクトをもって響くように」と願ったうえですすめられなくてはならないでしょう。