神父様のご聖体はなぜ大きいのですか?

いくつかに割って、分け合って食べることができるようにするためです。

使徒たちの時代にはミサを「パンを裂くこと」と呼んでいたほどですから、本来、ミサ(感謝の祭儀)の時には一つのパンを割いて、全員で分け合って食べるのが一番望ましい形なのです。

しかし、実際に集まった人の数だけ、一つのパンを割いていくのは時間もかかるし、パンのかけらが散乱したりして困難が生じるため、現在では参加者用として小さなパンを用意し、ご聖体として使うのが一般的になっています。
司祭のご聖体が大きいのは、せめて数人とでも分かち合うことができるようにするためです。

(資料)

『新約聖書』
( コリントの信徒への手紙 一 11章23-24節 )
「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」

( コリントの信徒への手紙 一 10章16-17節 使徒言行録2章42節、46節、20章7節 参照 )
「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」

『ミサ典礼書の総則と典礼暦年の一般原則』
(ローマ・ミサ典礼書の総則383項)
「しるしの観点から、感謝の祭儀で用いられるものは、本当に食物に見えるものでなければならない。それゆえ、感謝の祭儀のパンは、種なしパンで伝統的な形のものも、会衆とともにささげられるミサにおいて、司祭がパンをいくつかの部分に実際に割って、少なくとも幾人かの信者にそれを授与することができるようなものであることが望ましい。ただし、拝領者の数やその他の司牧上の理由によって小さなパンが必要な場合、決してそれを排除するものではない。使徒時代にはパンを割ることが端的に感謝の祭儀をさしていたのであるが、一つのパンにおける全員の一致のしるし、ならびに一つのパンが兄弟たちの間で分けられることによる愛のしるしとしての効果と重要性を、パンを割るという行為によって、はっきりと表現することができるのである」

(ローマ・ミサ典礼書の総則56項ホ参照)
「パンを割り、パンの一部をカリスの中に入れる間に、通常、平和の賛歌が聖歌隊あるいは先唱者によって歌われるか、大きな声で唱えられ、会衆はこれに呼応する。この呼唱は、パンを割る式に伴い、必要なだけ繰り返すことができる。最後の回は、「われらに平安を与えたまえ」のことばで結ぶ」